講師たちの成長とコミュニケーションについて
- 誠 小林
- 2024年3月6日
- 読了時間: 4分
今日(2024/3/6)から、水曜日の体制が少し変わりましてバイト講師二人体制になりました。
彼らは高専のロボコンサークルの中でも先輩後輩でしたが、アイアルクとして一緒に授業をすることはなかったので、どんなふうに授業をするのか、楽しみに見ていました。
二人とももうある程度経験値のある講師たちなので、授業そのものに心配はないのです。ただ、二人がどんなコミニュケーションをして授業をするのか、その動きを見てみたかったんですよね。
私から特に指示を出すことはせずに見ていましたが、彼らは自然と最初に「どんな生徒たちなのか」について、情報交換から始めてくれました。
とても嬉しかったですね。
彼らが自然と「子どもたちの個性を把握することが一番始めにやること」というのが、きちんと行動で示してくれたからです。
先日のブログでも書きましたが、アイアルクでは子どもたちの活動量を最大化することを授業の指標にしています。子どもたちがどんな声掛けでどんな反応をするのかというのが自然と想像できるようでないと授業は出来ないのですね。
だから二人は自然とその想像を補い合おうとコミニュケーションを取ってくれた。お互いが築いてきた生徒との関係性をシェアしようとしたことは、それが授業に不可欠だと彼らが認識してくれている証拠です。
私のやりたい授業の本質をちゃんと理解して、行動してくれていることが嬉しく、またとても頼もしく思った次第です。新体制の授業も大成功と言っていい出来でした。
先のブログでもコミュニケーションはスキルではなく関係性だと書かせてもらいました。実は、昨今のやたらと「コミニュケーションスキル」を絶対視する風潮に私は危惧を抱いているんですね。
コミュニケーションを「スキル」と捉えることの危険性は大きく2つあります。
1つ目はコミュニケーションをスキルと捉えてしまうと、コミュニケーションの不全が起こったときに相手のせいにしてしまう。そして、反省が生まれない、ということです。「話が通じねぇなぁ。このコミュ障が!」みたいな場面を想像してみてください。これはパワハラ、モラハラの温床になりかねないですよね。対話が成り立たないなら、お互いが歩み寄って打開しなきゃいけないのです。片方が非協力的でコミュニケーションなんて取れるわけじゃないんですから。
2つ目はコミュニケーションは二人以上で成り立つものだから、「スキル」のような個人で完結するものと捉えるのは間違い、ということです。これを誤解してしまうとコミュニケーションスキルを高めないと人と話する資格がない、と思ってしまうなんて悲しいことにもなりかねません。私は氷河期世代で苦しい就職活動を強いられたので、追い詰められた末にこういう強迫観念に囚われてしまった仲間や後輩を何人も知っています。
今は景気が多少改善してますので、そこまで追い詰められるケースは就活では少なくなってきているとは思いますが・・・。
一つだけ痛ましい例もあることをこのブログでご紹介しておきたいと思います。

この本は、長崎県のとある私立高校でのいじめ事件のルポルタージュです。この中で自ら命を断ってしまった高校生の遺書が載っています。
この中で自分のことを「コミュニケーション能力がなかった」「ごめんなさい」という言葉があるんですよね。胸が張り裂けるような思いになります。
過酷ないじめの中で追い詰められてそのような言葉出てしまったのだと思います。
「コミュニケーションスキル」という言葉の裏にはこのような残酷さがあることを、この痛ましい結果が教えてくれています。
私はアイアルクの教室を安全で安心できる環境にしたいと思っています。コミュニケーションというのは、そのための基礎の基礎です。講師と子どもの間のコミュニケーション、講師同士のコミュニケーション、もちろん我々と親御さんの間のコミュニケーションもとても大事です。
「コミュニケーションはスキルではなく関係性」
これを講師の間では口を酸っぱくして繰り返しているのは、小手先の技術に頼らずに相手との関係性を大事に育ててほしい、育てていくぞ、というアイアルクの基本姿勢を忘れないためです。
この思いがちゃんと講師に伝わっていることを確認できて、嬉しい日となりました。
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